ぶろん氏は語る

僕達は独りじゃない

デザート

 

学校で長いこと勉強に熱中していたからなのか、すっかり疲れてしまった私は、いつも通りの時間にやって来た地下鉄に乗るなり、がらんと空いていた椅子に座り込み、どうやらそのまま、少し眠ってしまったらしかった。ふらりと揺らいだ頭に気を取られて目を覚ますと、窓の外の景色は相変わらず、地下独特の無機質な闇が広がっており、車両は会社や飲み会から帰る途中の男女を中心とした乗客で混み合っている。途中の駅で都市部を中心に走っている路線から乗り換えてきた人たちがいるようだった。念のため、制服を模した紺色のブレザーのポケットから二つ折りの黒い携帯電話を取り出し、開いて待ち受け画面を表示して時刻を確認した。――白鳥が二羽と、浮き輪が二つ並んでいる。私は一人納得して、携帯電話を再びポケットへと仕舞い込み、もう一眠りすることにした。膝の上で抱いていた布製の鞄を枕にしようと、上半身を少し倒した。

 

気が付くと、私は家にいた。家の居間にいた。白くて長いエプロンを身に付け、丸いお盆を手にした母が、その背面にある窓の外から差し込む陽の光を背に受けて、穏やかに微笑み、机の上に煎茶の入った湯呑み茶碗と、珈琲の入ったカップを並べている。緩やかにうねった髪が所々光り、透けているのを眺めていると、昔何かの本で観た、何処ぞの教会にあるという一枚のステンドグラスが頭に浮かんだ。大天使ミカエル、だったか、――思い出せないが、とにかく、透かされたその母の髪は、母の姿は、とても美しかった。
珈琲の入ったカップが机の上にことりと置かれると、隣の部屋からぬっと父が現れた。私はカップと同じようにことりと置かれた、温かい湯呑み茶碗を両の掌で包み、傍らに置かれた新聞を左手に取りつつ、右手でカップを取り、そうして珈琲を啜りながら新聞を読む父の姿を眺めていた。アイロンがしっかりと掛けられたワイシャツに、灰色のベストをし、黒いネクタイを締めている。久しく見ていない格好だと思った。

 

膝から下がやたら寒い。風が吹き抜けているのではないかと思うほどに空気が流れているのを感じる。周りを見回したが、それの原因らしきものが見付からない。
私は思い切って、父に声を掛けた。
「足元だけ寒くない?」
「……」
父はなんでもないだろう、という風な顔をして一度こちらを向いて、また新聞に視線を戻した。そうかなあ、と思いながら、そろそろ飲める頃だろうと、まだ温かい湯呑み茶碗を口に付けて傾けると、まるで氷のように冷やかな煎茶が唇に触れたので驚いた。コップを置いてもう一度父を見ると、なんだか透けていて、きらきらと光っているように見えた。

 

「お父さん」私は父を呼ばずには居られなかった。父は珈琲を啜り、新聞を手にしたまま、止まっている。台所に視線を向けると母の姿が見えたので、「お母さん、お母さん」と呼んだが、母は一向にこちらに気か付かない。私は呼びに行こうと立ち上がろうとしたが、立てなかった。脚がなかったのだ。掌が、床を、机を、湯呑み茶碗を、すり抜ける。私も、透けていた。

 

微かな虚無の余韻を残し、いつも使う駅の名前を呼ぶアナウンスが聞こえて目が覚めた。私は電車の中にいた。あれは夢だったのだと思うと安堵の溜息が洩れた。電車が緩やかに速度を落としていくのを感じ、鞄を持ち立ち上がってドアの前へ向かう。無機質な暗黒とモルモットを詰め込んだ箱を隔てる一枚の硝子に映る自分と、獰猛な獣のように鋭い眼をしてみた。駅の明かりが次々に映り、電車が停まる。ドアが開き、階段を上って地上へ上がり、ポケットから取り出した磁気カードで改札を抜けた。ピピッ、という機械の鳴き声が耳を刺す。

 

駅を出ると、地下鉄の中のそれとは違い、温かく穏やかな暗闇が広がっていた。